大橋家の先祖は豊臣氏に仕えた武士でした。1615年大阪落城の後、京都五条大橋辺りに隠れ住んだようで、幕府の追及を逃れるため大橋を称するようになったと言われています。このころから数えると400年余りの歴史がある家柄となります。
江戸時代の初め(元和~寛永)に備中 中島村(現倉敷市中島)に移り住み、その後の宝永2年(1705)にこの倉敷に住むようになりました。
代々中島屋平右衛門と称し、水田・塩田を開発して大地主となり、かたわら金融業を営み大きな財をなしていきました。
天保の飢饉(概ね1833~1836江戸四大飢饉の一つ)には金千両を献じて名字を名乗る事を許され(当時農民・町民は名字を名乗ることが出来ませんでした)、加えて讃岐(現香川県)の直島に塩田十二町七反余りを開いてその功で、帯刀(刀を腰にさすこと)をも許され、江戸時代の末期 文久元年(1861)には倉敷村の庄屋をつとめました。
- ※ 金千両=当時の物価で換算すれば約1億円
- ※ 十二町七反=38,100坪=126,000㎡(東京ドーム3個弱)
- ※ 江戸四大飢饉=江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃(干ばつ)・水害などの悪天候や害虫の異常発生火山噴火などでの凶作の連続による飢饉の内、最も被害の甚大であったものをいう。寛永・享保・天明・天保の四つとされるが、寛永年間のものを除いて3大飢饉とされることもある
- ※ 庄屋=村落の長=納税その他の事務を統轄
大橋家は倉敷町屋の典型を示す代表的な建物で、主屋や長屋門・米蔵・内蔵の4棟が、昭和53年(1978)国の重要文化財の指定を受けています。
街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えた建物の配置が特色となっています。主要な出入り口がその長屋を貫くように作られているため「長屋門」と呼ばれ、通常の町屋では許されない事が行なわれていることは、当時倉敷代官所の許可があったわけで、その格の高さが偲ばれます。
主屋は入母屋造(いりもやづくり) で本瓦葺き、屋根裏に部屋と厨子(ずし)を設けた重層の建物が主体となり、東には平屋建ての座敷があります。
用材の多くは地方産の松を使い、化粧材はケヤキ、杉などを用いて鉋(かんな)仕上げにして、簡素ではあるが行き届いた建物となっています。
「普請覚」のほか,棟札・墨書等の資料から寛政8年(1796)より寛政11年(1799)にかけて主要部分が建築され, その後,文化4年(1807), 嘉永4年(1851)の2度にわたって大改造が行われたことが判明しています。
平成3年~7年にかけて,3年4カ月を要した建物の解体を含む保存修理工事が行われ,最も屋敷構えの整った嘉永4年(1851)の姿に復元され 当時の格式の高さと繁栄ぶりを伺い知る輝きを取り戻しました。
- ※ 普請覚=建築・土木工事の覚書
- ※ 入母屋造=2階上部の屋根が2方(開いた本を逆さにした形)へ勾配した切妻(きりつま)構造と、階部分の屋根が4方へ出た寄棟(よせむね)構造で造られていること
- ※ 厨子=屋根裏・天井裏の物置場